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   不都合な真実
 2007年も早いもので残りあとわずかとなった。
 今年世間の注目を集めた人や言動を振り返ると、大相撲の朝青龍、ボクシングの亀田兄弟、女優の沢尻エリカなど、どうもお騒がせな部分だけが目立った印象もある。
 彼らの行動に対しては、多くの人が多くのコメントを出したが、精神科医の香山リカ女史が面白い分析をしていた。それは「普段大相撲やボクシングにまったく興味がない人までバッシング側に回っている。多くの人が自らの暮らしで苛立ちを抱えるなかで、その怒りの向かう格好のターゲットになっているのではないか」というものだった。
 朝青龍の行動は確かに「横綱の品格にあるまじき」ことだが、別にそのことで何らかの不都合が生じる人は少ないはずである。皆が評論家となり、なぜか急に「けしからん」となげくのは、倫理的な憤りという崇高な価値観よりむしろ、そう言うことで自分たちの身の回りをめぐる不満の何かを晴らしているという側面があるのかもしれない。
 朝青龍や亀田兄弟や沢尻エリカがどこで何を言おうが、何をしようが、どんなに不都合な態度を示そうが、大勢に影響はない。
 皆が目をそむけてはいけない「不都合な真実」はほかにある。
2007年12月17日
   自分らしく
  企業研修のお手伝いをする機会が最近ある。
 対象は新入社員、中間管理職とまちまちだが、どうにも困った人というのはどこにもでもいる。
 具体的に言うと、テーマをはじめから覆す人がいる。「人員削減の遂行について」というテーマの場合、まあ気の重くなるようなテーマであることは確かだが、その職場の具体的なシチュエーションなどまったくお構いなしに、最初から「人員削減はすべきでない」で片付ける人がいる。こういう答えだと話がこれ以上進まない。論理的な積み重ねができなくなってしまう。どんな会社のシチュエーションでもこの答えひとつですんでしまう。
 あと似たような事例だが、テーマを変えて議論する人もいる。論旨そのものは的確なところもあるのだが、ここでは別にそれは聞いていない、というところで持論を展開される。テーマとは別の持論につきあわされ、こちらは飲み屋の女将になった気になる(無論、飲み屋の女将になったことはないのだが)。
 しかし実はこれらはまだ可愛い。本当に困るのは、こういう個人の意見を質すところで、他人の意見をそのまま引用している場合だ。これはもう見識を疑うのだが、実はこれが結構少なくない。マニュアルで育った人が多いせいか、出回っている例題の対応そのままで答え、したり顔でいる。
 変な意見を持って展開する人も困るが、自分の意見がないという人も困る。いい意味で個性的であるというのはなかなか難しい。
2007年11月26日
   そんなの関係ない
  フランス経済紙レゼコーがこの9月からWebニュースの有料配信を始めた。既に米ニューヨークタイムズは今年春から有料Webサイトを立ち上げている。
 弊社が電子・エレクトロニクス業界向けに有料でのWeb情報配信およびデータベースコンテンツの提供を始めた2004年には、まだWebは無料で見られるのが当たり前だったが、その認識はもう今では大きく変わっている。
 今は有料Webコンテンツはどこにでもある時代となった。弊社の会員サイトを見ていただければわかるが、Webはデータベースへのリンクなど奥行きへの深まりでは紙媒体に比べ段違いで、単なる情報配信にはとどまらない。というより、むしろその背後にあるデータベースの方が本質であり、送り手としてはそこを充実すべきだと思っている。
 しかし、紙としての情報配信形態にはもうニーズがないかというと、それもまた違う。ビジュアル的に雑誌や新聞の見やすさというのはやはりあり、この優位性はなかなか動かない。Webが紙の情報配信を駆逐するということはおそらくない。無論、逆もない。Webと紙媒体は競合するものではなく、むしろ補完関係を築いていくものだろう。
 現実には、世の中には「パソコンはあまり見ない」と新聞や雑誌、書籍だけを見ている人もまだまだいるし、逆に一日中パソコンしか見ていない人も少なくない。しかしどちらの人も損をしている。インターネットにも活字にも抵抗なく入っていける人の方がより多くの情報を持てることは言うまでもない。パソコンを見ない人も、本を読まない人も、どちらも片目を瞑って生きているのに等しい。
 社会が輻輳化すればするほど求められるのは柔軟性だ。受け手も、送り手も、多様な価値観のなかで自分の身の丈にあったものを上手に掬っていける人が生き残れる。肝要なのはどうやって自分が得たい情報を得て活用するかであり、その入手ツールの形態など「そんなの関係ない」のだ。
2007年10月15日
   誰も損をしない損失
  今からもう30年以上前のことだが、三億円強奪事件というのが発生した。犯人は誰も傷つけることなく鮮やかに金銭を強奪、三億円を奪われた東芝府中工場(社員のボーナス用資金だった)も保険が下り、社員は後日無事にボーナス支給を受けた。また保険を支払った保険会社も逆にそのことが宣伝になったため、事件は結局「誰も損をしなかった」とさえ言われている。そのせいか、犯人は凶悪犯人というよりはどこか偶像視さえされていて、最近でもまた宮崎あおい主演で映画化されている。
 しかし本当にあの事件は誰も損をしなかったのだろうか? 奪われた三億円というのは、誰かがどこかで埋めていかなくては帳尻が合わないはずだ。
 話は変わるが、先月某メディアから今後の景気動向への見通しを聞かれる機会があり、「トータルでは当面は強含みだと思うが、サブプライムローン問題に頭を抑えられる可能性はあるかもしれない」というようなことを述べたが、どうも本当にそんな様相になってきた。
 サブプライムローン問題は、発覚当初は影響度がつかみにくかったが、実際問題としてその後米国株式市場は一進一退ではあるが軟調で「米国株式のプチバブルははじけた」という人までここにきて出てきた。また9月4日に発表された外国為替証拠金(FX)取引では8月は前月比で6%減にとどまって「これまでとは状況が一変した」という指摘も聞かれる。
 ただこのサブプライムローン問題をわかりにくくしているのは、どこにその損失が集中していて、どこにリスクが眠っているのかがわかりにくい点だ。損失を計上する金融機関も出ているが、リスクは証券化されて世界の投資家に既に幅広く分散されており、誰がどういう損失を被るのか専門家でもよくわかっていない。またそのことが楽観論の根拠となってもいる。
 しかし発生した損失は、誰かが、どこかが、負担しなくてはならない。そこに損失がある以上は誰も損をしないという構造はありえない。前述の三億円事件もそうだが、確実にそこに損失はあるのだ。ただそれが色々なところに分散したため、あたかも誰も損をしなかったような錯覚に陥っているだけなのだ。
 しかしまあ錯覚なら錯覚のまま終わった方がいいとも思う。知らない方がいいこと、というのは実は結構たくさんある。サブプライムローンもそうやって収縮していくのがベストなのだが・・。
2007年9月10日
   中国の衛生管理
  北京オリンピックの成功が国家的課題ということもあり、中国政府が食品衛生管理などに神経質になっている。従来は無頓着に輸出されていたものも、厳しく検査し始めているようだ。しかしもともと現地の庶民の衛生感覚と、先進国の国際感覚とは大きなズレがある。
 この話をすると、皆に「作り話じゃないのか?」と言われるのだが、以前中国でこんな経験をしたことがある。
 田舎町で食堂に入るときに、表に街路樹のようなものがあり、ふと「ああ日本と同じような光景だな」と思った。街路樹の下には雑草が生えていて、それも妙に日本的だった。その後食事をしたとき、頼んだ料理の付け合わせになんだか得体の知れない青い葉っぱのようなものが出てきて、ひと口食べたのだが、ほとんど味つけもなく、そのまま残してしまった。そしてお金を払って表に出て、ふとさっきの街路樹を見ると、さっきまでそこに生えていた街路樹の下の雑草がごっそりなくなっていたのだ。
 偶然かもしれないし、だから中国の衛生事情は、などとしたり顔で言うつもりもない。あの食堂のおやじが本当に注文を受けてから表の雑草をとってきて惣菜の横に置いたかどうかはわからないが、ただ自分は少なくともあの時「やられた」と思った。別な言い方をすれば、偏見かもしれないが、中国の田舎町ならそんなこともありうるという思いが正直ある。
 過日、肉まんに段ボールの具をまぜたという報道があり、後日それはテレビ局のでっち上げと判明したが、あのニュースにしてもそれを見る人にありそうな話だと思わせるところが実はミソなのである。
 オリンピック開催とともに中国は国際化を目指しているが、少なくとも衛生管理の点では、個人的にはまだかなりの距離があるという気がする。
2007年8月15日
   金環蝕
  好景気と言われるが、個々の企業業績をみるとまだまだ「まだら模様」であり、経営悪化の最たる例である倒産事例についてもむしろ増加している。民間調査会社の集計をみても今年上半期の倒産件数は前年同期を16%上回っているそうだ。
 電機業界においても、今年に入ってからの主だったものだけでも、プリント配線板の千葉シイデイケイ、石川金属、スイッチング電源のサンデン、はんだ付装置の日本電熱計器など、一般的な知名度は低いが、業界では名の知れていた老舗的存在の倒産例が後を絶たない。こうした倒産例は一般紙ではなかなか報じられることがないが、業界での影響度と注目度は決して小さくない。倒産企業の周囲で話を聞くと「本当に好景気なのだろうか?」という思いがどうしても拭えない。
 倒産にいたる表面的な理由はさまざまである。取引先の倒産による連鎖、売り上げ不振などはもちろん、最近は材料価格の高騰などもメーカーには大きな痛手になっている。
 ただそうした理由は表向きであり、前述した中堅老舗企業などもいずれもそうだったが、要は理由はさまざまだが、結局は旧態依然とした企業体質の疲弊化が最大のネックとなっていたような気がする。澱(おり)のように溜まった何かが、目の前にある困難の克服を阻んでしまっていたのではないかと思える。企業としての熟成、専業メーカーとしてのプライドが、逆に企業改革の障害となってしまうというケースはありうると思う。
 半面、若さが馬脚を現すケースもある。ライブドアの蹉跌が典型的な例で、一般的にはコンプライアンスでの失敗例として認識されているが、それは言葉を変えれば企業家の経営手腕の未熟さとも言える。ライブドア以降も、架空取引、循環取引などの発覚は続いており、5月に倒産したIT企業のNAJも循環取引の破綻が経営そのものを行き詰らせたケースだ。
 報道機関として、倒産の原因を精神的なところに帰結しようとするのは邪道かもしれないが、数字の背後にあるものをおろそかにしてはいけないとも自戒する。
2007年7月16日
   限界を知るということ
  知人でも、あるいは雑誌やテレビで見る有名人でも、久しぶりに見ると「老けたな」と感じることが少なくない。外見もだが、その人の内面にも年を感じるケースがある。仕事でも、プライベートでも、あるいはテレビの画面を通じてでも、会話がかみ合っていなかったり、頭の回転など中身の方にも年齢を感じるケースが少なくない。
 そんななかで、先日テレビのインタビュー番組で田村正和が出ているのを見た。聞けばもう64歳だという。驚きである。政治家や企業人でも若々しい人は多いが、なかなかあれだけの色香を兼ね備えた若々しさを持っている人はいない。話しぶりもスマートで、身のこなしなどもまったく年齢を感じさせない。美しくさえあった。新作映画では伊東美咲とラブロマンスを演じるそうで、それもすごい。
 またこちらは知る人ぞ知るという存在だが、神山繁も年齢をまったく感じさせなかった。先日偶然つけたテレビに出ていたが、会話のテンポもよく、話もエスプリが効いていて、とても楽しかった。もう78歳だそうだ。80近くであれだけ人をひきつける話ができる人はなかなかいないだろう。
 若くて格好のいい人は多い。逆に言えば男性も女性も若いだけで既にある程度の美しさは兼ね備えている。しかし年をとってどれだけ身も心も若々しいか、シャープな思考と会話ができるか、ツボを抑えた会話ができるか、深みがあるか、色香があるか、これはオーバーに言えばその人の生き様とも関わってくる。
 電車のなかで、酔いつぶれたサラリーマンを見ていると、田村正和や神山繁とは対極的なものを感じる。確かに、居酒屋で愚痴をこぼして酔いつぶれている田村正和は想像できない。そう考えると、世の男性はいくら上手に年を重ねても、所詮田村正和にはなれないということだ。
 何だか哀しい話である。
2007年6月18日
   もうひとりの自分
  フランスの大統領選挙ではインターネットが重要な働きを示したようだ。ネット上の仮想社会では選挙事務所があり、人々はそこで自由に議論を交わす。現実社会では選挙事務所に行くことがなかった人も仮想社会の選挙事務所には出入りしたというデータが出ている。仮想社会の事務所といっても単なる掲示板ではない。まさに選挙事務所そのもののリアリティがあり、聞けば30人の専用スタッフが24時間体制で対応していたそうだ。
 これはネット社会と現実とが接点を持ちながら共存したものだが、ネットのなかで世界が完結しているケースも少なくない。
 ゲーム社会はその典型である。今やゲームのなかでは人は何にでもなれる。プロ野球やサッカーのプレーヤーになることはもちろん、チームすべてもゲームの世界では持てるし、動物を育てることはもちろん、馬主にもなれる。都市さえ建設することができる。これらはそのゲームのなかだけの世界だが、ゲームで使われる武器などが現実社会で金銭売買されるなど、本来はゲームの中だけで通用した価値観が現実社会にまで侵食し始めている。
 ブームとなった「電車男」も思えば現実と仮想社会が奇妙にリンクしていた。電車男は現実の恋愛とネット社会での恋愛相談を同時進行させたことが特徴だった。
 電車男も、ゲームの世界も、そしてフランス大統領選も、現実と仮想社会がそれぞれのバランスで結ばれているだけの違いで、構造的には同じことだ。
 そして今までのところはかろうじて現実社会が主体だが、次第に「ネット社会」が主となり「現実の出来事」が従となるケースも出てくるだろう。
 ネットのなかのもうひとりの自分が仮想社会で恋愛をし、仮想社会で仕事をして成功を収める。問題は仮想社会で得た満足感と現実社会との乖離だ。夢ならさめるが、仮想社会は明日も続く。現実社会における当人のアイデンティティの在処は微妙となる。
 わかりやすく言えば、現実社会では敗者だった人が、進化したネット社会で勝者となった場合、それを本人がどう受け止めるかに興味がある。そしてまたそのギャップがなにかとんでもないことを生んでいく気もする。ギャップをプラスに導くことでビジネスにつなげる人も出てくるだろう。興味は尽きない。
2007年5月7日
   企業価値について
  企業価値の評価は難しい。と言っては、それを専門としている立場上まずいが、言い逃れれば、なかなか一筋縄ではいかない。もう少し正確に言えば、業績や財務の分析はそれほど難しいことではない。足元受注や業界周辺の動向からその妥当性を判断することも大きな困難ではない。しかしそうしたことも含めた企業の価値そのものを問われると、やや言葉に窮する場面もある。
 過日、会談をする機会があり、財務やその会社の背景などへの価値判断に話が及び、改めて感じるところがあった。その業界が抱える問題点やそれぞれの会社の含み資産への評価などは比較的わかりやすいが、企業体質、経営者の資質、歴史的風土、あるいはその会社が何を指標に経営を行っているか、などとなるとなかなか抑えきれない。こうした観点でもこれまで取材対象を捉えてはきたつもりだが、改めて問われると、やはり目先の決算書での評価を重視しすぎていたのではと反省もした。
 そんななかで先日、ソニーの中鉢社長のインタビュー記事が某紙面に載っていたのを思い出した。中鉢氏によると、経営判断の指標としてEVA(economic value added)をとりいれたが、それを重視したことで目先の損失にこだわって、逆に中期的なビジョンが失われたとしていた。
 ソニーの過去の歴史と栄光、そして現状を考えると奥深い話である。
2007年3月22日
   厚化粧と甘い言葉
  3月期上場各社の第3四半期業績発表が続く。一部市場の在庫調整感を除けば概ね良好なようだが、肝心な半導体業界に陰りが見えるなど先行きは不透明だ。また、まだら模様は相変わらずであり、「勝ち組」の勢いが強い分、「負け組」が際立つ。ただ業績が低迷しているところでも「足元の受注は悪くない」とするなど、様相はやや入り組んでいる。
 一方、業績予想については慎重なところが少なくない。情報開示への関心が世間的にも高まっている分、各社ともぎりぎりになっての下方修正だけは避けたいという思惑が働いて慎重にならざるをえないのかもしれないが、上方修正があってもやや小幅にとどまるケースが多く、その背景を探ることも重要になってくる。会社側では、ぎりぎりまで着地点を見極めたいという意識は当然あるだろうが、ただその上ブレ幅だけの問題なのか、あるいは足元受注の変化から強気になりにくい何かがあるのか、それを探るのも重要だ。数字がすべてではない。その背後にあるものの方がむしろ大切だ。
 3割増収と報じられているが、よく調べると上積み分はすべてM&Aによる単純寄与だったりする。気をつけないと増収率だけが評価材料となってしまっていることもある。あるいは次の成長のための種蒔きをしている段階なのに、そのための開発投資負担による利益率の低下を単純な減益で片付けてしまわれていることもある。
 大切なのは、上手な化粧や取り繕われた言葉に隠されたものに惑わされず、実態を見抜くことだ。
 いつの世もそうだが、大体にして厚化粧と甘い言葉には罠がある。
 素顔を知ってから驚いては手遅れのときもある(!)。
2007年2月5日
   陽はまた昇る
  あけましておめでとうございます。
 年が変わったからといって何もめでたいことはない、などと言う人は哀しい。新しい年になり「今年こそは」と夢のひとつでも実現することを考えると何かが体のなかで漲る。その思いを大切にしたい。やがてそれは「こんなはずではなかった」という呟きに変わるかもしれないが、それでも「今年こそは」と思ったときの充実感だけは残る。毎年「今年こそは」と思いつづければ、いつかはその夢も叶うかもしれない。少なくとも、何も考えることなく新年を迎えた人よりは1歩前に進める可能性は高い。
 「今年こそはよい年に」という前向きの気持ちもまた「よい年」を実際に引き寄せるはずだ。世相を見渡しても不透明感が強く、いざなぎ景気超えに実感は乏しいが、「今年こそはよい年に」という千の思いが本当に好景気を引き寄せるかもしれない。
 年末年始の2007年の景気予測を聞くと、意外なほどポジティブな声が多い。千の声になるかもしれない。
 きっと今年は読者の皆様にとってもいい1年になるはずだ。まだ1月だ。そう信じましょう。
 今年もよろしくお願いいたします。
2007年1月5日
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